2016年03月17日

なぜフラワーエッセンスの虜になったのか? No.1 - 子どもの頃 -

ゆり園

私がどうしてフラワーエッセンスの虜になったのか?を、しばらくの間、語ってみたいと思います。 自分自身の整理のためと、フラワーエッセンスを通して、私が何をみなさんにお伝えしたいかを自分でも整理してみるために。

フラワーエッセンスの虜になるまでの軌跡として、まずは、私の小さなころのお話から。

私は生まれた時から、喘息もちで虚弱体質でした。喘息のせいか、おっぱいを飲ませようとしても、おっぱいを噴水のように口から噴き出し、おっぱいを飲めず、母を心配させていたそうです。

小学校の時の私の体重グラフは、ジグザクでした。 なぜなら、発作が出ると、ごはんが食べられないので、その時期に、ぐっと体重が落ちるためです。 

その頃の給食は残すことを許されませんでした。全部食べられない子どもは、給食が終わっても、昼休み遊べず、食べ終わるまで椅子に座って食べさせられます。 

その頃の私は、喘息の発作の苦しさや、発作が出ない時も、頑張っても食べられない子ども。発作の時は、給食のパンを5ミリくらいにちぎって、ちびちび食べるのが精一杯。 

食べ残しに対して、そんなに厳しい時代ですが、私は全部食べれなくても、「もういいよ」と許してもらえたのを覚えています。よっぽどだったんですね(;^ω^)

通学路には、跨線橋という、線路の上に渡された道を必ず通らなければなりませんでした。

発作の時は、平地でも呼吸が苦しいくらいですから、ほんのちょっとした坂道でも、息が切れ、死にそうになりました。ほんの少し登っては立ち止まり、再び呼吸ができるようになるまでおさまるのを待ちました。跨線橋は、私にとって、いつも、命をかけるような気分になる難所でした。

発作が出ると、夜も眠れません。なぜなら、横になると、発作がひどくなり、呼吸が出来ず、死にそうになるため、ずっと座っていないといけないから。 子どもですから、眠くて仕方のない時です。苦しくて目が覚め、座っても、眠いので、ウトウトしながら横になると、呼吸できずに、また目が覚める。 眠くても眠れない。眠れずによく泣いていました。ただ、ずっとそんな調子の私に、母もさすがに疲れていたようで、ほったらかしにされていたのも覚えています。

母方の家系には、必ず一人、喘息もちが生まれました。 母もそうでした。 母の子どものうち、ひどい喘息持ちだったのは私だけで、他の兄弟には一切引き継がれませんでした。

母が、吸入器を日常で使っていたので、私も押さない頃から、母の吸入器で喘息発作を抑える薬を吸入していました(今となっては、恐ろしい(^▽^;) 大人用の喘息吸入薬を小さな子どもに日常的にしょっちゅう使っていたのですから)。

あまり病院には連れていかないのが、母の方針だったようです。今となっては、何もなくて、私は幸運だったなと思うのですが、母は自己判断で、自分の薬(大人用)を私に飲ませていました。 

それでどうにかなっていたようですが、一度祖父母のうちに帰省した時、夜に喘息の発作が出て、眠れず、苦しくて、目を涙でいっぱいにして咳こみ続けていたら、見かねた叔母がすぐに病院に連れていけと行ってくれ、そこで注射を打ってもらった後、魔法のように苦しさが消え、安らかに眠れたのを覚えています。 こんなにすぐに楽になるんだ!とその時、強く感動したのを覚えているので、それまでも、また、それ以降も、そんな経験がなかったところをみると、ホント、病院には連れていかれなかったのだと思います(笑)。 叔母に言われて、私を病院に連れていかざるをえなくなった時の母は、ホント、迷惑そうな、嫌そうな顔をしていましたからね~。

幸い、中学に入る頃には、成長と共におさまってきたので、風邪をひいたりしない限り、発作は出ませんでした。でも、社会人になってからも、ストレスが溜まって体調が悪くなると、発作がありました。 

そんな方針で育ったので、苦しくても、すぐに病院に行くという発想は、私には一切ありませんでした。

しかし、社会人になってから、耐えられないほどの苦しい発作が出たので、はじめて病院に喘息で行くと、こう言われました。

 「そんなに苦しいのに、なんでそこまで頑張るのかな。こんなにひどかったら、普通仕事も休むでしょ」

子どもの頃、どんなに発作が出ても、母は私を学校まで送ることはなく、一人で歩いて学校に行かされました。

その頃、時代は、近所の子どもたちと一緒に班登校でした。なかなか進まない私に、他の班の子どもも一緒に止まっては待ってくれた記憶もありますが、それでは遅刻してしまうよね?? あの頃、私は、ただ、自分が生き延びるのに精一杯(笑)だったので、あまり覚えていないのです。どうしたのかな? 一学年上の姉も一緒だったはずだけど、あれ? 今思い返してみると、姉にも世話をしてもらった記憶がない(笑)。 さすがに、坂道の跨線橋は、息が切れて、死にそうになっていたので、班をとめてしまいましたが、そこ以外は、迷惑をかけないように、必死でついて行ってたような気がします。

そういや、必死で学校についても、保健の先生に帰されることも多々ありました。

そんな時、さすがに母は迎えにきてくれましたが、“なんで帰されないといけないんだ。あなたも、なんで帰ってくるの?頑張れるでしょ。帰って来なくていいよ。頑張りなさい” というオーラが全身から出てましたね(笑)。 毎回罪悪感を感じていたのを覚えています。

そういえば、体育を見学していたという記憶も少ないので、やっていたと思います。 発作ぐらいでても、他の人と同じように出来るのが当たり前だ、甘えるな!という感じでした。母自身がそういう風に育ってきたんでしょうね。

なので、その時、医者にそう言われて、とてもビックリしたのを覚えています。

そして、アトピーもでてくるのですが。。。。

                                                次に続く



  


Posted by フラワーエッセンス研究家 葛葉 at 10:50薬品、薬を使わない暮らしつれづれ

1990年にフランスで開催されて以来、世界各国で開催。
これまでで最大規模で、2014年5月2日~6日 日本で13年ぶりに開催。