フラワーエッセンス研究家の葛葉です。 › 薬品、薬を使わない暮らし

2016年09月11日

風邪と発熱はエネルギー調整

引き続き、『言葉でホルモンバランス整えて、『なりたい自分』になる! ―一瞬で緊張と不安が消える魔法のメソッド』 大嶋信頼 (著)  より、ご紹介 第3弾です(第2弾はコチラ→ 内弁慶な人

風邪

自分自身の感覚が“解離” = 感覚が切り離されてしまってその場で適切な感覚が感じられない - してしまい、相手の気持ちを考えることに依存してしまい、やめられなくなると、お互いがお互いに依存しているので、離れられない“共依存”の関係になっていきます。

たとえば、母子なら、母親が子どもより先に自分の代わりに反応をするので、感覚を奪われている状態になるため、子どもは「何も感じられない」状態になり、自分の感覚が感じられなくなった子どもは、生きている実感もなくしてしまう。だから、子どもは自分の感覚を求めて問題行動を起こす。そんな子どもの問題行動に対処するためにますます母親が密着して、共依存状態がさらに強化される。

この状態が癒されてくると、面白いことに、子どもがイライラするようになる →発熱という過程を経たそうですが、アルコール依存症の人がお酒をやめて現れる現象と同じと言います。

身体のバランスをとれなくなって、風邪のような症状になるそうですが、再びアルコールを飲むと、その症状は収まるそう。

面白いですね。フラワーエッセンスだけでなく、いわゆる、ヒーリングや代替療法的な、西洋医学でない治療法などでも、好転反応と言われる、このような現象が見られます。

私がよくクライアントさんに例えとして、お話するのは、スフィンクスが何世紀も経て、自分の役割を果たそうと立ち上がることにしたと仮定します。

でも、スフィンクスは、何世紀も、あの体勢で、ずっと固まっているうちに、土がしっかりと固まり、動けなくなっている状態ですから、立ち上がるには、とても頑張らないといけないし、ずっとあの体勢でいたから、使わなかった筋肉もガチガチ。変な形で座っていたとしても、長い年月をかけて、それはそれでバランスを維持していたのが、崩れ始める訳です。

そりゃ、しばらくは、体の調子が悪いでしょうね(笑)。

ちなみに、私は昔、山頂の山小屋でしばらく働いていたことがあります。山頂ですから、水が貴重なので、お風呂なんて、山頂では1か月に一度入れたらいいくらい。

お風呂入りたいですよねw。もちろん、みんな喜んで入るんですが、入浴後、調子悪くなるんです。なぜなら、それまで垢を流さずにいた状態で安定していたから(スミマセン、汚い話で(;^ω^))。毎日入浴する生活をしていたら、入浴しても調子悪くはならないのですが、身体は、劣悪な環境でも生きていけるよう、そこになじむ形で安定します。だから、環境を改善すると、最初の頃は逆にガタッと調子が悪くなります。

フラワーエッセンスと摂り始めて、体の調子を崩す人も結構いらっしゃいます。 頑張ってその過程を終わるまで頑張ると、まるで、温泉上がりのように、心身とも、スキッと清々しく気持ちよくなるのですが、その感じは、あたかも、高熱が下がって体が元気になった時のあの清々しさに似ています。

野口整体の創始者の野口 晴哉さんの著書に「風邪の効用」という本があります。

このご著書の中で、野口さんはこうおっしゃっておられます。

「自然な経過を乱しさえしなければ、風邪をひいた後は、あたかも蛇が脱皮するように新鮮な体になる」


  


Posted by フラワーエッセンス研究家 葛葉 at 10:08薬品、薬を使わない暮らし本の紹介

2016年03月17日

なぜフラワーエッセンスの虜になったのか? No.1 - 子どもの頃 -

ゆり園

私がどうしてフラワーエッセンスの虜になったのか?を、しばらくの間、語ってみたいと思います。 自分自身の整理のためと、フラワーエッセンスを通して、私が何をみなさんにお伝えしたいかを自分でも整理してみるために。

フラワーエッセンスの虜になるまでの軌跡として、まずは、私の小さなころのお話から。

私は生まれた時から、喘息もちで虚弱体質でした。喘息のせいか、おっぱいを飲ませようとしても、おっぱいを噴水のように口から噴き出し、おっぱいを飲めず、母を心配させていたそうです。

小学校の時の私の体重グラフは、ジグザクでした。 なぜなら、発作が出ると、ごはんが食べられないので、その時期に、ぐっと体重が落ちるためです。 

その頃の給食は残すことを許されませんでした。全部食べられない子どもは、給食が終わっても、昼休み遊べず、食べ終わるまで椅子に座って食べさせられます。 

その頃の私は、喘息の発作の苦しさや、発作が出ない時も、頑張っても食べられない子ども。発作の時は、給食のパンを5ミリくらいにちぎって、ちびちび食べるのが精一杯。 

食べ残しに対して、そんなに厳しい時代ですが、私は全部食べれなくても、「もういいよ」と許してもらえたのを覚えています。よっぽどだったんですね(;^ω^)

通学路には、跨線橋という、線路の上に渡された道を必ず通らなければなりませんでした。

発作の時は、平地でも呼吸が苦しいくらいですから、ほんのちょっとした坂道でも、息が切れ、死にそうになりました。ほんの少し登っては立ち止まり、再び呼吸ができるようになるまでおさまるのを待ちました。跨線橋は、私にとって、いつも、命をかけるような気分になる難所でした。

発作が出ると、夜も眠れません。なぜなら、横になると、発作がひどくなり、呼吸が出来ず、死にそうになるため、ずっと座っていないといけないから。 子どもですから、眠くて仕方のない時です。苦しくて目が覚め、座っても、眠いので、ウトウトしながら横になると、呼吸できずに、また目が覚める。 眠くても眠れない。眠れずによく泣いていました。ただ、ずっとそんな調子の私に、母もさすがに疲れていたようで、ほったらかしにされていたのも覚えています。

母方の家系には、必ず一人、喘息もちが生まれました。 母もそうでした。 母の子どものうち、ひどい喘息持ちだったのは私だけで、他の兄弟には一切引き継がれませんでした。

母が、吸入器を日常で使っていたので、私も押さない頃から、母の吸入器で喘息発作を抑える薬を吸入していました(今となっては、恐ろしい(^▽^;) 大人用の喘息吸入薬を小さな子どもに日常的にしょっちゅう使っていたのですから)。

あまり病院には連れていかないのが、母の方針だったようです。今となっては、何もなくて、私は幸運だったなと思うのですが、母は自己判断で、自分の薬(大人用)を私に飲ませていました。 

それでどうにかなっていたようですが、一度祖父母のうちに帰省した時、夜に喘息の発作が出て、眠れず、苦しくて、目を涙でいっぱいにして咳こみ続けていたら、見かねた叔母がすぐに病院に連れていけと行ってくれ、そこで注射を打ってもらった後、魔法のように苦しさが消え、安らかに眠れたのを覚えています。 こんなにすぐに楽になるんだ!とその時、強く感動したのを覚えているので、それまでも、また、それ以降も、そんな経験がなかったところをみると、ホント、病院には連れていかれなかったのだと思います(笑)。 叔母に言われて、私を病院に連れていかざるをえなくなった時の母は、ホント、迷惑そうな、嫌そうな顔をしていましたからね~。

幸い、中学に入る頃には、成長と共におさまってきたので、風邪をひいたりしない限り、発作は出ませんでした。でも、社会人になってからも、ストレスが溜まって体調が悪くなると、発作がありました。 

そんな方針で育ったので、苦しくても、すぐに病院に行くという発想は、私には一切ありませんでした。

しかし、社会人になってから、耐えられないほどの苦しい発作が出たので、はじめて病院に喘息で行くと、こう言われました。

 「そんなに苦しいのに、なんでそこまで頑張るのかな。こんなにひどかったら、普通仕事も休むでしょ」

子どもの頃、どんなに発作が出ても、母は私を学校まで送ることはなく、一人で歩いて学校に行かされました。

その頃、時代は、近所の子どもたちと一緒に班登校でした。なかなか進まない私に、他の班の子どもも一緒に止まっては待ってくれた記憶もありますが、それでは遅刻してしまうよね?? あの頃、私は、ただ、自分が生き延びるのに精一杯(笑)だったので、あまり覚えていないのです。どうしたのかな? 一学年上の姉も一緒だったはずだけど、あれ? 今思い返してみると、姉にも世話をしてもらった記憶がない(笑)。 さすがに、坂道の跨線橋は、息が切れて、死にそうになっていたので、班をとめてしまいましたが、そこ以外は、迷惑をかけないように、必死でついて行ってたような気がします。

そういや、必死で学校についても、保健の先生に帰されることも多々ありました。

そんな時、さすがに母は迎えにきてくれましたが、“なんで帰されないといけないんだ。あなたも、なんで帰ってくるの?頑張れるでしょ。帰って来なくていいよ。頑張りなさい” というオーラが全身から出てましたね(笑)。 毎回罪悪感を感じていたのを覚えています。

そういえば、体育を見学していたという記憶も少ないので、やっていたと思います。 発作ぐらいでても、他の人と同じように出来るのが当たり前だ、甘えるな!という感じでした。母自身がそういう風に育ってきたんでしょうね。

なので、その時、医者にそう言われて、とてもビックリしたのを覚えています。

そして、アトピーもでてくるのですが。。。。

                                                次に続く



  


Posted by フラワーエッセンス研究家 葛葉 at 10:50薬品、薬を使わない暮らし

2015年11月16日

細胞のショックを静めて、早く治す

お風呂 転倒

先日、お風呂で滑って転んで、足を強打し、あまりの痛さに動けなくなりました。 ホント、骨折れたんじゃないかというくらい(;^ω^)

1人暮らしのお年寄りなら、このまま立ち上がれなくて、リカバリーできずに、深刻な事態になってるだろうなぁ とか、骨がもろくなってたら、重大な骨折を絶対してるだろうなぁ、、、、と思いました。マジでww

変なポーズで転んで、そのまま動けなくなったので、あまりの痛さで動けないので、助けを呼びたいものの、恥が先に立ち、思い止まりました。しかし、痛すぎて、ホント全く動けない。。。。 そうこうするうちに、身体は冷え、事態はさらに悪化していきます。マズイ。。。 とりあえず、この痛みが少しでも収まれば、ほんの少しでも動けるんでは。。。

そう思った時、以前から疑問だったある本のフレーズが頭に浮かんだので、藁をもすがる気持ちで、それをすることにしました。

それは、「ミュータント・メッセージ (角川文庫)」という、アボリジニと生活を共にした人の本。

全く何も持たず、120日に渡って彼らと共に砂漠を歩いた一人の白人女性は、ある時、彼らの一人が崖から落ちて、骨折した場面に出くわします。

私たちの社会では、すぐに病院に連れていきますが、彼らはそういう手段を使いません。

仲間がケガをした仲間のところに、すぐにかけより、彼の骨折した足の骨と細胞に向かって、“大丈夫だ。何も問題ない。あなたは完璧だ” という思いを送り続けるのです。

それを見ていた、著者である白人女性は、“なんて非科学的なんだ、そんなので治るはずがない” と呆れてみていました。しばらくして、彼は立ち上がって歩き始めました。 ありえない場面を目撃した著者は、あっけにとられました。  続きを読む


Posted by フラワーエッセンス研究家 葛葉 at 18:20薬品、薬を使わない暮らし

1990年にフランスで開催されて以来、世界各国で開催。
これまでで最大規模で、2014年5月2日~6日 日本で13年ぶりに開催。